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太陽が顔を出し、降り注ぐ光が全てを無に還すような、世界―――で。 「―――、どうした。」 突如クリアになった音声に、は意識を取り戻した。未だ彼女の目線の先には廃墟と太陽。 夏が終わりに近付き、随分と昼間が短くなった。ちょうど今は陽が傾き始める時間帯だ。 一時期は人々を威圧するほどの荘厳さでもって栄えていた建物(所謂、幕府高官の住まい)の群れはいつのまにか無残な姿に変わり果てた。 或は、これこそが江戸の本当の姿なのかもしれない。始めから此処は退廃と嘘に支配された街。 ゆっくりと視線を声の主に向けると、彼、高杉はもう一度「どうした」と問うかのように目を細めた。首を横に振ることで、は答えた。 「つけてろ。」 ぶっきらぼうに差し出されたマスク。が黙って受け取り身につける間も、高杉は悠々と煙管を吸っていた。 「・・・晋助は?」 「ンなもんつけてたらコイツが吸えねェ。それに、もう慣れた。」 このマスクは細菌を防ぐためのものではない。このマスクが防ぐのは臭いだ。 かつて高級住宅街と呼ばれていたこの地も今では酷い有様だ。多くの建物は住居者を失い月日に任せて朽ちていき、かつては整えられていた草木は生い茂り、しかし自然の匂いはしない。 ―――腐臭だ。どこかに死骸でもあるのか。 以前は歌舞伎町の小さな路地独特だった臭いが、今はどこにいても感じられるようになった。腐る臭い、糞尿に吐瀉物の臭い。 高杉は眉一つ動かさず飄々と歩いていく。それどころか「大丈夫か」なんて、を気遣う声すらかけて。なるほどこの男の下に人が集うのもわかる気がした。 「こっちは初めて来たけど・・・変わらないのね、他と。」 「あァ。元々栄えてた分、退廃っぷりは酷ェもんだがな。」 天人が襲来し長かった攘夷戦争に幕が引かれてから、江戸は栄えに栄えた。新技術の導入による生産の効率化、生活様式の変化、経済成長。 当然、全ての人間が恩恵を受けているわけではない。あらゆる現象は格差を伴った。歌舞伎町には貧困層が犇めいていて、少し離れたいくつかの街には裕福な人間が、特に政界の大物が多かった。 何とか一度は落ち着きを取り戻したかのように見えた幕府だが、元々天人が日本を堂々と歩けるようになったのは幕府が天人に平伏したが故だ。高杉晋助ももまさにその裏切りの犠牲者なのだが、それはとにかく、そうして天人に「敗北した」幕府が自我を保って行政を営めるはずもなく。賄賂、癒着と止まない汚職の果てに遂にはこの国の中枢機構にも天人の侵入を許した。 つまり。 ふんぞり返っていた官僚たちも、天人にとって邪魔となるとすぐに切り捨てられ―――そしてかつて栄華を極めたこの「街」には、今は没落者がひしめいている。幕府は天人に牛耳られているというわけだ。 高杉はふらりふらりと歩を進めていく。は表情を変えるでもなく、辺りの様子を目に写しながら、その後ろを歩く。 大通りだというのにこの空気の淀みはどうだ。まるで歌舞伎町の路地裏を拡大したかのようにさえ感じる。 不意に高杉が立ち止まり、目の前の朽ちた屋敷を顎でしゃくった。どうやら到着したらしい。 「入るぞ。」 元はさぞ立派な屋敷だったのだろう。 小さな家屋が朽ちていく様は日常的で胸を打つこともないが、かつてはさぞ栄えていたであろう屋敷を蔦が覆い、所々腐敗さえしている様子は人々に様々な印象を与える。過去の栄華、明日への不安、そしてそこから少し離れている人間には、怒りさえ通り越した侮蔑を。 高杉が門を押すと、ギィ、と音が呻いた。そこから玄関まで無駄に広い庭を突っ切って、縁側らしい場所が見えたところで二人は立ち止まった。 「晋助。」 はゆっくりと刀に手をかけた。 「問題無ェ。お前は大人しくしてろ。」 どちらが早かっただろうか。高杉がニィ、と笑みを浮かべたのと、苦無が飛んできたのと。 キン、キィン、と金属の独特の音を立てて、高杉の刀はそれらを全て叩き落とした。ほんの一瞬の出来事ではあったが、はほう、とそれに見惚れた。 「ほお・・・さすがだな。」 縁側の障子は開け放されており、和室の奥から、髭を生やした白髪混じりの男性が、杖をつきながらゆっくりと歩いてきた。 「攘夷戦争が終わってから随分と経っているというのに、お前の腕は衰えることを知らんな。」 「アンタこそ、没落貴族になり下がってから随分時間が立つってェのに、まだこんな護衛を雇っているとはなァ。」 「私の意志ではない。息子が勝手にしていることだ。」 老人というには若く中年というには厳格な顔つきをした男は、ふとに目線を移した。 「悪の帝王には良い女がつきものだが、やはりおまえも例外ではなかったか。」 「クク、悪の帝王とはまた随分陳腐な例えだ。コイツが良い女なことは真実だがな。」 高杉は小馬鹿にしたような笑みを浮かべたまま、の腰にするりと腕を回した。突然のことには高杉の表情を窺ったが、高杉は変わらぬ表情のままただ男を見据えている。特に不快というわけでもなかったので、はその手を振り払わなかった。 「それより、早くしてくれねェか。俺はさっさと用件を済ませて帰らなきゃならねェんでな。」 命令的にも受けとれる高杉の言葉に男は眉を動かしたが、諦めたように一つ息を吐くと、草履をはいて縁側から庭に下りた。高杉は微動だにせず、ただじっと男が近づいてくるのを待っている。 元は幕府高官として攘夷派を裏切り、高杉の首を取ることをさえ命じていた男が、今は自ら高杉に歩み寄っている。これは退化か?進歩か?どうでもいいことをはぐるりと考えていた。 「これだろう・・・お前が望んでいたものは。」 男はそっと、紐で巻かれた紙を高杉に手渡した。 「わかっているとは思うが、」 「安心しな。事が上手くいきゃ、てめぇの息子は無傷のままさ。」 事が上手くいけば。 そう、必ずしも、息子が無傷だとは限らない。それでも縋ってしまう――プライドも良心も何もかもを捨てて、高杉という男に。 「言ってたのはそれ?天人官僚の屋敷地図、って。」 男の屋敷を出てからは口を開いた。相変わらずマスク越しなので、少し声が篭っている。 「あァ。ついでに警護の詳細計画も書いてある。これで襲撃も上手くいくだろうよ。」 「あの男、攘夷派撲滅を高々と叫んでいた男よね。過激派の・・・見覚えがあるわ。」 「アレも、元は幕府高官だったがな。見ての通り、天人のせいで没落貴族になったってわけさ。」 「息子は今も幕府に?」 「そうだ。コネで入れたはいいが、天人の力が強くなりすぎた。今では酷い待遇でこの紙の屋敷の主を警護してるんだとよ。」 だからあの男は息子の無事を高杉に請うたのだ。息子伝いに有力な情報を渡す、その代わりあの屋敷を襲撃する際には息子の巻き添えを防いでくれ、と。 もしかしたら、その騒ぎに乗じて息子を連れだし、どこか異国へ逃げるつもりなのかもしれない。 「こうして見ているだけなら・・・蔦も風情があって、悪くはねェんだがな。」 高杉につられて振り返ると、屋敷の後ろに日が沈むのが見えた。屋根の上からちょうど半分だけ顔を覗かせている燃え盛る橙の太陽は、全てのもの――裏切り者も反逆者も朽ち果てた世界すらも、全てを同じ色に染め上げていた。 |