殺されるかもしれないと思いました。

それでもいいかもしれないと思いました。

それほどにも私はあの人を慕っているのでしょうか?それははいともいいえとも答えることの出来ない問いかけです。







あの人に拾われてから一ヶ月程が経ちました。

この一ヶ月で私はあの人に心を開いた、なんてことはさすがにないですけれども、私は私なりにあの人に感謝をしているつもりです。




拾われた後に連れて来られたのは立派なマンションの一室。
こんなに広いマンションに住むぐらいなら家をお買いになればいいのにと申しましたら、仕事の都合上、一軒家はあまり好まれない、とのことでした。

この広い部屋で一ヶ月の間、私が何をしていたのかといいますと、簡単に言ってしまえばそれらは全て、所謂「家事」というもので。

掃除、洗濯、食事。これらを軸に、私のお仕事は主にあの人の身の回りのお世話をすることで御座います。

あの人は眠ることには酷く貪欲ですが食べることには酷く無頓着で、私が此処に来るまでは一体どうやって生活してらしたのかと疑問を抱くほどです。
(これまでは他の女性の方を住まわせていらっしゃったのですかと聞けば「そんな面倒なことするか」とあっさり切り捨てられてしまいました)



此処に連れられて来てから一週間程した時のことです。
私は、あの人から、あの人自身のことを少しだけ聞かされました。

といってもその大半はお仕事についてで、彼が所謂マフィアというやつであるということや、そのため生活が不規則であること、洗濯物に血の付いたシャツが混ざっていても気にするな、等。
この一週間の間にもう三度は血の付いたお洋服を洗いましたので今更感が拭えなかったのがそのときの正直な感想なのですが、
それでも、主(それも命の恩人の!)について少しでも多くのことを知ることができたというのは少なからず私に正の感情を与えました。

マフィアの方なんていうのはみなさん毎日どんぱちやりあっているのだと思っていたのですが、「そりゃもっと下の連中だけだ」そうで。
妙な時間にあの人を起こしてお見送りすることも血の付いたお洋服を洗うことも慣れるほどには行いましたけれど、それらは思っていたほどは頻繁ではなく。
何よりシャツに付着する血液の量の少なさに驚きました。
(てっきり複数の人間の血でべっとりべっちゃりなお洋服を毎日のように洗わされるのだと思っていましたから)



そうして確かに少しずつ私はあの人――ターレス様を主とし中心とする生活に慣れてきてはいたのですが、一ヶ月経った今日という日に、初めての感情を抱きました。



これまでもお仕事で首を絞められることがありましたから(あくまでお遊びとしての一環で、です。もしもそのまま殺されそうになった時には、私たち遊女には客を刺し殺す権利が与えられていました)初めてといえば嘘になるかもしれません。

しかし今までのそれらはあくまでお遊び、自分が殺されなどしないことがわかった上での行為でした。


しかし今のそれは、本当に。



本当に、初めて抱く、感情です(というよりは、感想に近いかもしれません)










「ターレス、様、」

「風呂、沸いてるか。」

「は、い、」

嗚呼、情けない。
返事もまともに出来ないのでしょうか、私という人間は。

けれどもどんなにしなくても良い経験を積んできているのだとしても、所詮、私はまだ10代の小娘。



今まで見たこともないほどの血(全て返り血であるということぐらいは私でも見ればわかります)を全身に、それこそ顔から足先までに付着させて、
それだけの血を浴びているにも関わらずまだ足りないとでも言いたそうな、血に飢えた獣のような鋭い眼光に射られては、私とて思わず身体が竦んでしまいます
(けれどよくよく考えてみれば、その眼光を放つ張本人であるターレス様自身もまた10代の少年、であるはずなのですけれども)


玄関先で動けなくなっている私の横をターレス様が通り過ぎる時、混ざりに混ざり合った血液の香りが私に届きました。

その瞬間、リビングに足を踏み入れたところで立ち止まっているターレス様に名前を呼ばれました。




、来い。」

「え、あ、はい。」



慌ててついていきますと、辿り着いたのは脱衣所。

頭の回転がついていかない私の腕はぐい、と引かれ、ターレス様と私はそのまま、服も脱がないままに二人でお風呂場に立ち入ることになってしまいました。



「ちょ、ターレス様!?」


慌てる私など見えていないかのようにターレス様が洗い場に座られたので、自然と私もその前に正座をするかたちになります。

どうしたものかと思案していましたら、ターレス様が一言「洗え」と。

一瞬何を言われているのかわかりませんでしたがまさかターレス様の命令を拒否するわけにもいきませんので(そもそも嫌では無かったですし)、
失礼しますと一声おかけしてから、ゆっくりとシャワーのお湯をターレス様の肩からかけていきました。

本来ならば先にシャツを脱がせてさしあげるべきなのですが、乾いた血のせいでボタンが上手く外れそうにありませんでしたので、先にぬるま湯で血を流してから脱がしてさしあげることにしたのです。

ある程度の血が流れ落ちて排水溝が赤黒く染まった頃、私はターレス様のシャツに手をかけました。
このような行為もそれ以上のこともこれまで他の男に対して何度も何度も繰り返していたというのに、相手がターレス様であるとなると、たったこれだけのことでもどうにも緊張してしまっていけません。

震えそうになる手を抑え付けるためにひっそりと深呼吸をしてからボタンを外しにかかります。
ボタンを三つほど外し終え、ターレス様の鍛えられた身体が見え隠れし始めたところで、不意に腕を掴まれました。




「ターレス、様?」

申し訳ありません、何か不具合が御座いましたでしょうか

そう申し上げようとして顔を上げた瞬間、私は、蛙の気持ちがわかったような気がしました。蛇に睨まれた蛙の気持ちが、です。


未だあの獣のような眼で、あまりにも至近距離でじっと私の目を見つめていらっしゃるものですから。


それは本当に、そのまま殺されてしまうのではないかと思うほどの瞬間でした。
けれども、息をすることさえ忘れていた私は、それでも良いのではないかと思っていました。


ターレス様への忠誠心への表れなのかどうかはわかりません。
単純にこの世界に飽き飽きしていたからなのかもしれません。


私が諦めとも至福ともつかないふしぎな感情をぐるぐると胸の内で循環させていると、ターレス様がふと表情を柔らかくなさりました



「悪ぃ・・・お前も濡れちまったな。もういい、後は自分でやる。着替えて来い。」


まさに水も滴る何とか、です。

先程までの獣のような眼光は突然影を潜めて穏やかな表情に変化してしまうし、滴る雫も張り付いたシャツも恐ろしく色香を引き立てていますし、もう私は何がなにやら、です。

兎に角この状況を何とかしようと、私は言われたとおりお風呂場を後にしました。








「何という、こと、でしょう、」



今よりももっともっと深い暗闇の中で生きていた頃、ターレス様なんかよりもっとずっと下賎な男たちに危うく命を奪われかけた時は、
私は自分の権利とやらをしっかり使わせて頂き、相手の男を刺し殺しました。


それだというのに、今は、もう



殺されてもいいだなんて。


それがあの人への忠誠心から来る感情なのかどうかは私にはわかりません。

しかし、それは絶望や諦めから生じた感情ではないと言う事だけは、どうやら確かなようなのです。











多分ターレス様も同じような状態だった筈(目の前の女に『主従関係』以上の感情を抱いていたという意味で)